かわち野第九集
冬紅葉
山田 清
数えてみれば、8年程になる。
自宅近くからバスに乗り、中百舌鳥駅で地下鉄御堂筋線に乗り換える。直通の北大阪急行・千里中央駅まで、およそ1時間半。一つは趣味の会合に、もう一つは、かかりつけとなった歯科医への通い道である。併せて月に2、3度出掛けることもあった。
少し遠出すぎるとの思いもあるのだが、老いて単調になりがちな日々の生活、アクセントをつけるためにも大切な外出であった。どちらの用件も午前中で終わり、いつしか午後からの自由が楽しみとなっていた。
おかげで北大阪を起点にして、更に、あちこちへと出掛けることができ、見聞を広げることができたのである。
令和4年、師走も半ばになっていた。
その日は、千里中央駅から二つ目の駅、緑地公園駅で下車した。肌寒い平日の午後、人出は少ない。服部緑地公園の最北部、『日本民家集落博物館』を目指した。野外博物館への入り口は、国政に携わった某議員の屋敷から移設された『河内布施の長屋門』である。この日は金曜日、長屋門は開かれていた。
過去に3度足を運んだのだが、なぜかあいにくの月曜の休館日ばかり、やっと念願を叶えることができた。
受付を済ませ、ゆるやかに曲がる登りの坂道を歩くと、左手に最初の民家、『日向椎葉の民家』。そして正面の道端に、真っ赤な紅葉の木が1本。あと半月もすれば、新しい年がやってくるというのに、今年の秋を終わろうともしないでいる。招き入れの紅葉は、空中に赤い塊となって浮いていた。
館内の古民家を巡る。
その多くが茅葺き屋根、それぞれの土地に合った屋内の間取り、機械化される前の古い農機具の数々、家畜を飼っていた厩はどこの民家にもあった。カマドがある、家族が揃って熱い鍋を囲んだだろう、囲炉裏がある。
ジャリ道のとなりは、女竹の林。路傍に植えられているものは、麦、えんどう、空豆、ふき、大根、たまねぎ、菜の花など生活の匂いのするものばかりが目にはいる。
戦後すぐに生まれ、生家が農家であった私。20軒ほどの集落は、もう一つ大きな家族でもあった。かかわりながら、そして助け合いながら生活をしていた。夕暮れの広場からは、元気な子供達のわらべ唄が聞こえてきそうだ。
昭和中頃、懐郷の世界へとつれられていった。
館内も終盤の、『飛騨白川の合掌造りの民家』が近い。
蛇行する川の流れのような通路の両脇、今が盛りと色づいている紅葉の木が2本。交差しあう枝は、錦秋の通用門であった。見上げれば真っ赤な空。時々、雲間からの逆光の日差しに、葉脈までもが透き通って見える。対の紅葉、表から裏側から見ても、きれいなものは変わらずきれいだった。
さらに通路の奥、大きな藪椿を従えてもう1本、紅葉の木。赤に、黄に緑の葉までもつけている。思いのままの混じり合いが美しい。
急がなくても良い、周りに惑わされなくても良い、緑葉にも、錦を飾るときは必ずやってくる。ゆっくりと色付き、遅れて散ればよい。芽吹きの季節は、まだまだ先だ。
車両の排ガスも届かない公園の奥、高木の常緑樹や、杉の木や、竹林などが背景を整える。春の桜が、秋の銀杏や紅葉が美しいのは、後方に控え、美しいものを引き立たせる濃い緑の力。目立たなくても、ただ陰で支える、そんな生き方も良い。
館内を一回りし、木造の休憩所で休んだ。
北風が吹けば、枯れ葉のすれる音がかすかにに聞こえる。茅葺き屋根の端から、赤い紅葉に見つめられている私。ヒヨドリが、まだ帰るなと引き留める。去りがたい思いが、もう一度館内を巡らせた。
そして受付にもどると、当館発行の『民家の案内』を買い求めた。
代金を払いながら。
「紅葉が、きれいに色付いていました」
「今年は暖かい日が続いたからでしょうか、まだ散ってないですね」
「思わぬ秋を、堪能しました。ありがとうございました……」
かすかな記憶の中に残っていた幼い頃の、故郷の風景の数々がよみがえった。
ここまで歩んできた、長い道のりを思う。
散らないで、私を待っていてくれた冬紅葉。
今日は、美しいものを見た。
しばらくの間、やさしくなれそうだ。