かわち野第七集
小学生の優しさ
津田 展志
私は27歳の時に難病に罹った。今、世界を揺るがしているコロナウイルスではないが、ウイルス感染が原因だ。
ウイルスを攻撃するはずの免疫が神経を攻撃して痺れや麻痺が出る病気と分かった。高熱が1週間続いた事で痺れが全身に広がり、植物人間になる一歩手前だった。治療が始まった事で危うく症状は改善された。しかし、改善されても身動きひとつ出来なくなっていた。
10ヶ月の入院生活で病気は治ったが、後遺症として全身に痺れが残った。リハビリは、妻の付き添いのお陰で2年後には一人で歩けるようになった。歩けるようになると、色々な仕事も出来た。ただ、痺れが強いので触覚がない。目で見て状態を把握しないと、状態を維持できないのだ。痺れの状態は常時針で刺されたような痛みがあり、ジンジンと疼いている。だから、布団の中で足がどこにあってどうなっているかも分からない。
私の障害は外見を見ても分からない。歩き方を見て、声を掛けてくれたり、助けてくれる人がたくさんいた。後遺症がなければ、経験出来なかった事だ。人の優しさが分かるようになると受け入れる事も優しさだと思えた。
絶望から生きる努力をするようになったのは周りの優しさを素直に受け入れる事が出来るようになってからだ。
リハビリ中や通所、会社の関係者や通勤でも性別や年齢に関係なく、たくさんの優しさに巡り会えた。当たり前に出来ていた事が出来なくなった時に、その優しさが見えるようになったと思う。
声を掛けて貰うと、「大丈夫です」と1度は言う時もあるが、それでも受け入れた。お互いが幸せな気持ちになれると思ったからだ。たくさん出会った優しさの中の一つに小学生の男の子がいた。すごいと思った出来事だったので知ってもらいたくて書いてみる。
私が制御盤の設計をしていた時だ。河内長野から大正区まで通っていた。難波でバスに乗り換えるのだが、行く時は1時間半、帰る時は2時間近く掛かる。定時で終わった会社からの帰り道、いつものバス停のすぐ側まで来た。私の乗るバスは本数も多くラッシュ時は5、6分間隔で来る。
停留場に私の乗るバスが入って来た。早足で間に合うかどうかの距離だ。早足と言っても歩幅が大きくなるだけで焦ると余計に遅くなる。膝を曲げて地面に足が着かないからだ。いつもなら目の前でドアが閉まると嫌なので、次のバスを待つ。その日は何故か間に合うと思い、乗車口まで急いだ。まだ乗っている人がいて間に合うと思った。だけど、他のバスを待っている人がたくさんいる。その人達をかき分けて乗ろうとしたが無情にも目の前で扉が閉まりバスは動き出した。
その時だった。バス停の椅子に剣道具を置いていた小学生の男の子が声を掛けてきた。
「このバスに乗られるのですか」
「そうだけど、次のバスに乗るから……」
最後まで私の言葉は聞かずに、剣道具を置いたまま猛然とバスを追いかけた。私は何が起こったのか一瞬分からず、呆然と見ていただけだ。男の子はバスの前扉に追いつくと扉を叩きバスを停めてしまった。そして、後ろの扉を開けてもらうと大きな声で叫んだ。
「早く乗って下さい」
呼ばれたので慌てて乗車口に行こうとした。だけど1メートル位でも焦ると歩けない。少年が戻って手を貸してくれたが間に合わなかった。運転手には私が見えていなかったのか、時間に追われていたのかどちらかだろう。
「ごめんな、走れなくて」
「いいです。もうちょっと待ってくれれば乗れたのに」
「ありがとう、又すぐに来るから。だけど危ないから、動いているバスを停めたら駄目だよ」
「はい、わかりました」
はきはきした言葉と、素直な態度にも驚いたが、それ以上に行動力があった。私が乗るバスが来る前に、他のバスに乗って行ってしまったが、乗る前に頭を下げて挨拶をしてくれた。背が低いので小学生低学年くらいにしか見えないが高学年と思えるほどだ。親のしつけが良いだけでなく、剣道を習っていることもあるのだろう。
私たちの小さな頃は、しっかりした子供がたくさんいた。道徳の時間にも困っている人には声を掛けましょうと言われた。だから、そう心掛けていた。
だけど、今の子供たちは知らない人には近づくなと言われている。だから、声をかけてくれた事や行動は驚きだった。
今でも困っていれば声を掛けてくれる子供もいるのだ。
次のバスを待っている間、すごいと思うだけでなく心まで温かくなった。