かわち野

かわち野第八集

オカッパさんの頃

松本 恭子

 父は農業技術指導技師の職責で、家族と共に、北海道各地を六、七年の間隔で転勤した。
 私は三歳まで、南部のリンゴの産地で育ちながら、赤い実がたわわだった筈の景色を思い出せない。だが、果実の中ではリンゴが一番好きだ。おそらく離乳食に果汁を飲み、搾りおろしを食べ、浅からぬ絆で体が甘酸っぱい味覚を覚えているのだと思う。
 四歳から小学四年生までを過ごした村は、北部の田園地帯だった。長い冬を深い雪に閉ざされ、春の訪れで辺りが一斉に息吹き、活気とその美しい風景は心に焼きついている。
 この村をさらに北へ、宗谷岬に向かう途中の知恵文村に、父方の祖父母の家がある。
 五歳の夏のことだった。同じ歳のいとこで、やんちゃ坊主の宏ちゃんと遊びに行き、私は騒動を起こした。
 地主の祖父は若い頃、広大な原野を開拓した。信じがたい手作業ではびこる笹の根を除き、大樹を倒したそうだ。辛苦を注いだ農地その大方を小作人に貸していた。
 それでも十分広い自作農業を、四男の叔父が継いだ。それを共に担う妹の叔母夫婦は別棟に住み子供が無く、あまえる私を可愛がってくれた。
 祖父母は、私たちが悪さをしても目を細め、甘いぼた餅や芋餅のおやつで孫の機嫌をとるので、私たち二人も居ごこちがよく、ホームシックなどどこ吹く風と駆けまわっていた。
 前庭に大きな池があった。手を打つと真鯉、緋鯉が口をパクパクさせ集まってくる。「餌だぞー」と何度もだましうちの悪戯。家畜小屋は朝からコッコ、ブウブウと騒がしく、それぞれの柵の中で、兎、豚、鶏、馬が飼われていた。
 日中の鶏が地面をつっついている隙間を狙い、寝藁の下の卵を探りあて、「あったよ~」とワクワクする遊び。兎を抱き、豚のお尻を撫でてみたり、毎日動物たちと触れ合い仲よしになった。
 私は大きな馬が好きで、見ているだけでホッとした。立ったまま目を閉じて眠り、バケツ一杯ほどのオシッコにびっくり。食事は藁と乾燥トウキビの配合食を、さも美味しそうに食べるのも不思議だった。モグモグ噛みながら、優しい目で私を見つめるので恥ずかしいような、くすぐったい気持になっていた。
 いつも、宏ちゃんが「行こう!」と駆けだす後を追い、収穫で忙しい大人たちの邪魔をして、広い畑の中で鬼ごっこ、かくれんぼと遊びまわった。しかし、昼間がどんなに楽しくても、私は夜が怖かった。
 座敷の床の間に、床几に座った姿で甲冑が飾られていて、冑の下の黒い布が不気味な顔に見えた。睨んでいるような気配に怯える私は、最後の日まで別棟の叔母の家でお泊りをしていた。
 その日は天気がよく、大きなスモモの木の下に、熟した実がぽとぽと落ちていた辺りで、一人で遊んでいた。機嫌よく暮れて夕食を母屋ですませ、いつものように叔母の家で寝ていた夜半、激しい腹痛と下痢、嘔吐、高熱で、私は医院に担ぎこまれ、疫痢と診断された。昼間、甘酸っぱいスモモを傷んだ実と知らず拾って食べたのが原因だったと、深夜の大騒動のてんまつを叔母に聞かされた。
 月日が流れ、苦い思い出は忘れても気付いたこともある。祖母に抱きしめられ言われた。
ーー死ぬところだったんだよーー
 と、この恐ろしい言葉が耳に残った。
 生死の境を跨いで、今私は孫やひ孫を持つ身となり、祖母の安堵の思い、駄目を諭し諫める表現だったと理解できる。
 農家は自給自足で、美味しい料理には、豚肉や鶏肉が入っていたこと、味噌味で甘めの煮魚が鯉のこともあった。遊んでくれた池の鯉、家畜小屋の仲良しさんたちが眼裏(まなうら)に映る。
 利発だった宏ちゃんは北大医学部を卒業し、帯広で精神神経科医院を開業していたが、薬学部卒で片腕の妻に先立たれて、潔く閉院。その後、かつての医師仲間たちと世界一周、三カ月の船旅をして来たという記録誌が届いた。船上や街角で撮ったと思われる写真に残るやんちゃな面影をなつかしんだ。
 叔父は戦後、アメリカの占領政策による農地法で、地主の農地が小作人に払い下げられると、農業を諦め、家族と叔母夫婦を伴いブラジル移住を決意した。
 すでに祖父母は他界し、心置きなかったとしても、何故遠い外国なのか、祖国に未練は無いのかと、私の方が寂しく、横浜港を離れていく船が小さくなるまで手を振り、空しさいっぱいで埠頭に立ちつくしていた。
 知恵文村の祖父母の家は、跡形なく消えた。
 けれど、記憶は脳裡で活き活きと動き出す。池を囲う低木のクズベリは、小さなまん丸の実が鈴なりで赤くなっている。傍らで無心に摘んでは食べている、オカッパ頭の私が見えた。
「お~い、ぽんぽん痛くなるよ~」
 九十歳を超えて、おばあさんになってしまった私は、甘酸っぱい味を思い出し、心配のあまり心の中で叫んでいた。